真田幸村〜真田昌幸〜真田幸隆

真田幸隆は、永正十年(1513年)に信濃国に誕生、父は海野棟綱。
天文十年(1541年)の武田信虎、諏訪頼重、村上義清らとの戦(海野平の戦い)の敗退を経て、数年後、信虎を追放し武田家の当主となった武田晴信(後の武田信玄)に仕えることとなります。
主君となった武田信玄の信濃侵攻に立ち塞がったのが、かつて幸隆が海野平で戦い、敗退に追い込まれた敵将の村上義清でした。信玄は、真田幸隆に村上義清の砥石城攻略を命じます。そして天文二十年(1551年)に幸隆は砥石城を陥し、以後、真田幸隆は武田軍のなかで知将としての頭角を現し、武田軍先鋒としての地位を得ます。
真田家は、息子の真田昌幸、そして孫の真田幸村こと真田信繁によって其の名が広められていくのです。

真田昌幸は、天文十六年(1547年)に武田信玄の臣従、真田幸隆の三男として信濃国に誕生する。
真田家家督を継いでいた信綱そして次男・昌輝の二人の兄が、天正三年(1575年)、主君・武田勝頼が織田信長、徳川家康軍に敗れた三河「長篠の戦い」にて戦死したため、二十九歳にて真田家家督を継ぐこととなります。
しかし、天正十年(1582年)に織田信長の嫡男である織田信忠との戦に武田勝頼率いる武田軍は総崩れとなり、父・真田幸隆より仕えてきた武田家が滅亡するのです。

真田幸村こと真田信繁は、永禄十年(1567年)に信濃国に誕生、父は名将として名高い真田昌幸、母は山之手殿。幸村(信繁)は昌幸の次男であり、兄は真田信之。
真田一族には代々「真田衆」と呼ばれた忍び(忍者)軍団が影にいたとされています。彼ら真田衆は、修験道の血を強く受け継いだ呪術的な力も持っていたともされています。
そのような伝説の中で生まれた架空の英雄が、猿飛佐助、霧隠才蔵ら「真田十勇士」です。真田衆とも呼ばれた忍び一族が実際はどのような名で真田家に仕えていたか不明ですが、彼らが忍術そして修験道「飯縄(飯綱)の法」を駆使して真田幸隆、昌幸らが戦に勝利したのも、彼ら真田衆が影に動いたからだとも伝えられています。
「飯綱(飯縄)」は、信州の戸隠山に連なる山の名称です。その山には「飯縄大明神」が祀られており、多くの修験者の修行の聖地、山岳信仰が盛んな地であったとされています。
そして武田信玄ら多くの名だたる戦国武将たちも飯縄大明神を軍神として信仰していたとも言われています。