黒田官兵衛

黒田官兵衛孝高のちの黒田如水の戦国軍師としての軌跡。
織田信長に仕え、其の後、黒田最強軍団を率いて豊臣秀吉、徳川家康を勝利へと導いた
名軍師黒田官兵衛の生涯を辿ります。

黒田官兵衛軍師伝 一

天文十五年(1546年)十一月、黒田官兵衛は播磨国姫路城にて黒田美濃守職隆(職高)の長男として誕生、幼名は万吉、母は明石宗和の娘、小寺藤兵衛政職の養女 岩姫。孝高が生まれた日、姫路山の山頂に雲が懸かり雪が降ったと記されている。 永禄十年(1567年)、二十二歳にて家督を継ぎ、志方城主 櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の息女 光(てる)姫を娶る。永禄十一年(1568年)に光姫(孝圓)との間に嫡男 松寿丸(黒田長政)が誕生する。 永禄十一年九月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、国々の大名にも上洛命令が下るが、主君である播磨御着城主 小寺政職は、親織田派の家臣 山脇六郎左衛門の殺害を孝高に命じる。しかし永禄十三年(1570年)孝高は、時勢を読み、織田信長への臣従を主君 政職に進言する。岐阜城にて織田信長に拝謁した官兵衛孝高は、忠誠を誓い、そして信長の信任を受けた証として愛刀「圧切」を拝領する。

織田信長愛刀と黒田官兵衛「長谷部国重 太刀 圧し切長谷部」>
太刀「圧し切長谷部」刀剣イラスト

上記の刀のイラストは、福岡市博物館蔵の黒田官兵衛が織田信長から拝領した刀
「圧し切長谷部」のイメージイラストです。
織田信長の愛刀「圧し切長谷部」の逸話として、
信長の怒りをかった茶坊主が手討ちにされそうになり膳棚の下に逃げたのを
信長がこの刀で棚ごと茶坊主を斬ったという逸話が残されています。

天正五年(1577年)、織田信長より中国方面軍総司令長官に任命された羽柴秀吉が有岡(伊丹)城主 摂津守荒木村重と共に播磨に入ると、官兵衛孝高は居城である姫路城を秀吉に献上する。しかし翌年、荒木村重が敵方の毛利輝元と通じ、反旗を翻し、有明城に籠城、主君である小寺政職も毛利に寝返る。官兵衛は村重の説得に丸腰で有岡城に赴くが、捕らわれ幽閉される。織田軍の攻撃を受け小寺政職の城は落城し政職は逃亡。天正七年(1579年)、長期の籠城の末に村重も逃亡、そして一年の幽閉の末、官兵衛は解放される。官兵衛が荒木村重の元へ行き戻らぬとの知らせを織田信長は、官兵衛が小寺政職に従って毛利方に寝返ったと判断し、羽柴秀吉の長浜城に人質として預けられていた官兵衛の嫡男 松寿丸(黒田長政)を竹中重治に斬るように命じますが、竹中重治(半兵衛)は、信長の命に背き、福寿丸を逃がし、そして美濃に匿ってやるのです。官兵衛が解放され信長の誤解が解かれ、そして信長は、官兵衛の主君である小寺政職の謀反にも従わず己の信念を貫き、自分への忠誠心への恩賞として黒田官兵衛孝高に一万石の領地を与えます。黒田官兵衛は大名となるのです。

黒田官兵衛〜表家紋「藤巴紋」
黒田官兵衛家紋「藤巴紋」イラスト
上記の黒田家の家紋は「黒田藤」とも呼ばれた「藤巴紋」です。
裏紋(替紋)は「五三桐」「永楽銭」等。

豊臣秀吉の二人の軍師竹中重治「半兵衛」と黒田孝高「官兵衛」

織田信長の下で羽柴秀吉(豊臣秀吉)に寄騎として仕えた双璧の名軍師、竹中半兵衛と黒田官兵衛。竹中重治と黒田孝高は、昵懇の間柄だったと言われています。美濃に生まれ斎藤道三亡き後、斎藤竜興に仕えていましたが、竜興を見限り織田信長が美濃攻めに勝利した後は信長に仕えます。そして信長の下、羽柴秀吉の寄騎として黒田孝高、官兵衛と共に智略をめぐらし稀代の名軍師として羽柴秀吉を勝利へと導いていきます。双璧の名軍師として黒田官兵衛と共に戦っていた竹中半兵衛ですが、病に冒されていたのです。天正七年、播磨三木城を包囲している最中に没します。享年三十六歳、最期まで軍師として生きた竹中半兵衛の生涯でした。有明城が落ち、黒田官兵衛が幽閉の身から解放されたのが同年の十月、竹中半兵衛が没したのが六月・・・黒田官兵衛は、主である織田信長を欺いてまで自分の嫡男である松寿丸の命を救ってくれた盟友、居城に匿ってくれた竹中半兵衛に礼を申すことすら叶わなかったのです。竹中半兵衛の命を奪ったのは、「労咳(結核)〜肺病」であったとの説があります。

黒田官兵衛の戦略「豊臣秀吉の備中高松城水攻め」

天正九年十月(1581年)、中国方面軍総司令官である羽柴秀吉は、兵糧攻めにより因幡鳥取城を落とし、翌年の天正十年、毛利の支配下にあった備中高松城を攻めます。城主清水宗治は籠城します。そこで黒田官兵衛は、高松城が低湿地にあるため水攻めが有効であるとの策を軍師として秀吉に進言します。そして、羽柴秀吉は高松城の側を流れる足守川をせき止めて城を水攻めにする作戦にでるのです。川をせき止める工事は、十日あまりの短期間の突貫工事だったと言われています。城主である清水宗治は「開城」し、自らの首と引き替えに兵たちの命を救ってくれと言い残し切腹します。この「備中高松城水攻め」は、黒田官兵衛の軍師としての功績であったとされています。

黒田官兵衛の戦略〜織田信長 本能寺の変〜「豊臣秀吉 中国大返し」

黒田官兵衛が秀吉に従い備中高松城を攻めていた時、織田信長に最期が迫っていました。天正十年六月二日(1582年)、戦国の風雲児、戦国の覇者あった織田信長が、臣下である明智光秀の謀反により、京都本願寺にて自刃するのです。この急報に黒田官兵衛は、主君を失いながらも軍師として冷静に羽柴秀吉に進言します。「主君、織田信長公の自刃を、敵方の毛利氏が知る前に和睦すべし。」と。羽柴秀吉は、黒田官兵衛の進言どおりに毛利と休戦し、軍を引き連れ、山陽道を一気に駆け抜け、姫路城に入り、軍備を調え、明智光秀追討に出陣します。黒田官兵衛のこの軍師としての進言、其の策の通りに軍を動かした迅速なる秀吉の行動が、豊臣秀吉を天下統一へと導く一歩となる「中国大返し」です。