柳生新陰流

新陰流の流祖は、上州出身の剣豪、上泉伊勢守秀綱(かみいずみいせのかみひでつな)後の武蔵守信綱。
秀綱は新当流、念流、陰流を学び、そして新陰流を創始する。そしてその正統を継ぐのが「柳生新陰流」であるとされる。柳生新陰流の創始者となる柳生宗厳(やぎゅうむねよし)石舟斎は、大永七年(1527年)に大和国柳生庄の領主であった柳生家厳の子として生まれる。幼少より剣技を学び、三十七歳で新陰流上泉信綱に入門し、三十九歳にて新陰流皆伝印可を受け目録を得る。三好長慶(みよしちょうけい)そして織田信長に仕えることとなる。

文禄三年(1594年)六十六歳となった柳生宗厳は、徳川家康に招聘される。武芸者でもあった家康の興味は、新陰流奥義、秘伝とされた「無刀取り」であった。
宗厳と五男の又右衛門宗矩(またえもんむねのり)との剣技披露に家康は感嘆し、嫡男である徳川秀忠の剣法指南役に抜擢する。しかし、宗厳は老齢を理由に辞退、当時二十四歳であった五男の宗矩を推挙する。
そして、徳川家康が江戸幕府を開府するにともない、柳生新陰流は将軍家御流儀として柳生宗矩は、将軍家剣術指南役から出世し、但馬守となり幕政にも参画する力を持つ大名となる。
宗矩の嫡男、柳生十兵衛三厳(みつよし)は、十二歳で徳川家光の小姓となり、後に諸国武者修行の旅にでる。