江戸時代暦〜年中行事

江戸時代の人々の暮らしに深く関わっていた二十四節気、暦と四季折々の行事、歳時記

睦月

立春 正月節(二十四節気) 二月 四日頃(新暦)
雨水 正月中(二十四節気) 二月十九日頃(新暦)

【総登城】

元旦明け六ツより三日にかけて、尾張、紀伊、水戸の御三家を筆頭に譜代大名及び加賀、鳥取、大聖寺ら外様大名そして御目見え以上の番頭衆らが総登城し、将軍に年始の挨拶〜拝礼する。

【若水】

元旦早朝、一家の主が新しい手桶を持ち、何人にも会わずに無言で井戸に行き、新年一番に汲んだ井戸水を「若水」と呼び、その年一年の邪気を払う効力があるとされ、その水を沸かし縁起の良いお茶「大福茶」として飲んだとされています。

【屠蘇】

蜀椒(しょくしょう)、肉桂(にっけい)、大黄(だいおう)、桔梗(ききょう)、防風(ぼうふう)等の薬草を大晦日に井戸水に浸しておき、元旦に酒に入れてのむ「屠蘇酒」。

【初荷】

江戸時代は、正月一日は商いは休みでありましたが、二日には「初売り」とする商家が多く、初入荷として二日は荷を積んだ大八車などが行き交い、年始の挨拶もこの日に多く行われ、それぞれの玄関先に出された「年礼帳」に挨拶廻りに訪れた際に記帳したとされています。

【人日〜春の七草と七草粥】

「せり」、「なずな」、「ごぎょう」、「はこべら」、「ほとけのざ」、「すずな」、「すずしろ」 の春の七草を入れた粥をその年の邪気を払い無病息災を願って一月七日の朝に食べるという日ですが、江戸時代の町人の間では、必ずしも七草すべてを入れて食べたとは限らず、二〜三種ほど入れたものを食べていたとも言われています。また一月七日は新年になって初めて爪を切る日ともされていました。七草を入れた水に足、手の爪を浸してから爪を切ったとの言い伝えもあります。

【具足開き〜鏡開き】

武家では、正月に床の間の甲冑(具足)に供えた鏡餅(鎧餅)を十一日に斧や木槌で割り雑煮として食したとされています。 庶民の間では、鏡開きは一月四日とされていましたが、後に武士に真似て十一日に鏡餅を割りお汁粉に入れて食するようになったとのことです。 商家では、この日に蔵を開き、大福帳を新しくしたとされています。

如月

啓蟄 二月節(二十四節気) 三月 六日頃(新暦)
春分 二月中(二十四節気) 三月二一日頃(新暦)

【初午〜稲荷社】

京の伏見稲荷大社の分霊として全国に多くのお稲荷さんがお祀りされておりますが、江戸にも武家、商家の屋敷内、長屋にと祀られており、二月最初の午の日に稲荷祭(初午祭)が子供たちの祭りとして大いに賑わったとのことです。 子供たちの教育(読み書き、そろばん)の場であった寺子屋に通いだすのも二月「初午」の日が多かったと言われています。

弥生

清明 三月節(二十四節気) 四月 六日頃(新暦)
穀雨 三月中(二十四節気) 四月二十日頃(新暦)

【上巳の節句〜雛祭〜桃の節句】

三月の最初の巳(み)の日を上巳と呼び、江戸時代の五節句(一月七日の人日〜七草、三月三日の上巳、五月五日の端午、七月七日の七夕、九月九日の重陽)の一つであり、女の子の祭りで武家、商家、庶民の娘のいる家庭では雛人形を飾り、紅白萌黄(もえぎ)色三段の菱餅、霰(あられ)、白酒が供えられ、諸芸の師匠に贈答品をもって挨拶に行くという日でもあったそうです。古来「上巳」は、紙、木、藁(わら)で作った「人の形代(かたしろ)」にその人間に憑いた穢れ(けがれ)を移し川、海に流したという穢れを払う儀式であり、その形代がのちに「雛人形」となったとされています。桃の花の咲く季節の節句ということで別名「桃の節句」と呼ばれるようなったとのことです。

【出替】

江戸時代の人宿(口入屋)は、今で言う人材派遣会社であり、当初は武家の奉公人の紹介斡旋を行っており、その際の中間手数料でなりたっておりました。次第に商家などにも人手を斡旋するようになったそうです。半年契約の者は九月五日に交替し、一年契約の者は三月五日に交替する仕組みだったとされています。

【花見】

江戸時代一番の桜の名所は「寛永寺」でございました。寛永寺は徳川将軍家菩提寺でもあり、満開の桜を愛でるに限り言えば最高のお花見名所でございましたが、将軍家菩提寺でもあり当初は飲めや歌えの花見は禁じられておりました。江戸っ子たちに桜の季節に花見として人気を得ていたのが、八代将軍徳川吉宗により桜が植えられた「隅田川堤」でございます。吉宗公が江戸庶民にお花見の楽しみを広めたともいえましょう。裕福な者たちは、隅田川に舟を出し、桜を愛でるという花見に興じたと言われておりまする。徳川吉宗は隅田川堤の他に「飛鳥山」、「御殿山」にも桜の名所を設けました。茶店などもあり、桜満開の季節には江戸っ子たちで賑わったとのことでございす。

卯月

立夏 四月節(二十四節気) 五月 六日頃(新暦)
小満 四月中(二十四節気) 五月二一日頃(新暦)

【衣替】

江戸時代は、武家も庶民も皆一斉に四月一日に冬物から夏の衣へと「衣替」をしました。綿入れの着物から袷にするのですが、庶民にとって着物は高価なものでしたので、袷の裏地を外して単衣にしたり、着物の綿を抜いたりするための「仕立て屋」といった職業がこの時期繁盛したようです。そして武家も庶民もこの時期は「足袋」を履かないこととされておりました。夏物から冬の衣、綿入れ、袷とする「衣替」は九月九日でした。

【灌仏会】

四月八日、寺院では花御堂(はなみどう)と言われる花で飾った御堂の中に、釈迦誕生の姿の立像を入れて、詣でた武士、町人たちが千歳茶(あまちゃ)を頭から注ぎ祝いました。

皐月

芒種 五月節(二十四節気) 六月 六日頃(新暦)
夏至 五月中(二十四節気) 六月二一日頃(新暦)

【端午の節句】

五月五日、五節句の一つ『端午の節句』。軒端や庭先に幟旗(のぼりばた)を立て、武家では甲冑や太刀や薙刀、町人も兜や人形を飾り男児の成長を祝うと共に穢れを払う行事として門、屋根に菖蒲を掛ける〜菖蒲葺き。江戸城でもこの日は、武士にとって菖蒲が尚武(武道を尊ぶ)ことに通じるとして、小袖長袴に晒の浅葱か卵色の染め帷子の正装で総登城し、武門の棟梁たる将軍に粽を献上する日でもありました。

【川開き〜花火】

五月二十八日から八月二十八日の間、涼をとり、舟遊びを楽しむ納涼船を浮かべることが許され、花火もこの川開きの日から打ち上げられ始めました。そして、花火を見物するのに集まった庶民で、両国橋の上は賑わったとのことです。

水無月

小暑 六月節(二十四節気) 七月 七日頃(新暦)
大暑 六月中(二十四節気) 七月二三日頃(新暦)

【富士山開き】

六月一日、信仰の対象でもある富士の山開きの日であり、富士山に登るらずとも御利益を授かることができるようにと富士を模して造られた「富士塚」には多くの人々が詣で、中でも駒込浅間神社の富士塚は人気があったとされています。

【土用】

一年に四回ある季節の変わり目「土用」。中でも立秋前の土用には「土用干し」として衣服や書物等を日に当て、風通しをして虫やカビを予防したりして大掃除をする期間でもありました。そして立秋前の十八日間の土用の間に巡ってくる最初の丑の日に「う」の付く食べ物を食すると暑気払い出来るとされ、特に「鰻」を食べると滋養強壮として健康に良いとされました。

【嘉祥】

元亀三年(1572年)六月十六日、徳川家康は三方ヶ原での戦いの前に嘉定通宝(「か」と「つう」を音に含み「勝」に通ずるとされた)を拾ったことに吉兆であるとし、家臣である大久保藤五郎から六種類の菓子を献上されたことに縁起を担ぎ、それ以降、六月十六日を「嘉祥の祝賀」として大名たちが総登城して将軍から菓子を頂戴する日となりました。そしてこの武士の行事は、江戸の庶民たちの間では、十六個の菓子、十六文で菓子を買うといった形で広まりました。

【夏越の祓】

十二月、そして六月の晦日に半年の間に体に憑いた穢れを祓う行事が行われました。紙で人の姿を模した形代(かたしろ)に自らの穢れを移して海や川に流し心身を清める。そしてもう一つの清めの儀式として茅で作った大きな輪の中を人がくぐる「茅の輪くぐり」という行事があり、現在もその行事を行う神社もあります。

文月

立秋 七月節(二十四節気)八月 八日頃 (新暦)
処暑 七月中(二十四節気) 八月二三日頃(新暦)

【七夕祭】

七月七日、「七夕(しっせき)」には、江戸城では、将軍をはじめ皆が白帷子に長袴で祝い、武家も庶民も青竹を買い、願い事、歌、芸事の上達祈願を書いた短冊を笹に結び付け、江戸中に色とりどりの笹竹が所狭しと立てられました。そして、この七夕の日の食事として「素麺」が家々で食べられました。 五節句の一つとされていた江戸時代の「七夕」の由来は、中国の星伝説「牽牛と織女」と日本古来からの信仰「棚機つ女」とが習合したものとされています。

【井戸浚】

七月七日、「七夕」の日は、長屋などでは大家の指揮のもとで、長屋の住人総出で井戸の水を浚い、井戸職人が中におりて洗うという井戸水の汲み替えの行事をする日でもありました。

【浅草寺の四万六千日】

七月十日、「観世音菩薩」観音様の縁日。この日に参詣すると四万六千日分詣でたのと同じ功徳を得ることができる日とされました。江戸時代から観光の名所であった浅草寺は、特にこの日は大勢の人で賑わい、境内ではほおずき市が多くたちました。

葉月

白露 八月節(二十四節気) 九月 八日頃(新暦)
秋分 八月中(二十四節気) 九月二三日頃(新暦)

【八朔】

天正十八年(1590年)八月一日、徳川家康が豊臣秀吉の命により関東に国替えとなり、はじめて江戸入りした日であり、江戸幕府にとって八月一日は、一年中で最高の祝日とされ、諸大名、諸役人は総登城し、白帷子、上下長袴で将軍に拝謁、太刀、馬代を献上した。

【月見〜仲秋の名月 十五夜】

八月十五日は、「中秋の名月」十五夜、真円を描き、煌々と夜空を照らす満月を観賞するための宴が各地で開かれました。月は尊き存在として供物を薄(すすき)と共に供える習慣があり、供物には三宝に「里芋」、十五個の「団子」、秋の作物である柿や栗も盛りつけて供えたとされています。

長月

甘露 九月節(二十四節気) 十月 八日頃(新暦)
霜降 九月中(二十四節気) 十月二三日頃(新暦)

【重陽の節句】

九月九日、この日は一年の中で最大陽数である「九」が並ぶ日で、最も縁起の良いひとされ、邪気を払うとされていた菊を浸した酒、菊の花を浮かべた盃を飲み交わし、「延命息災長寿」を願う行事が行われました。「食」では、初栗で栗飯を食べるという慣習もあり、「衣」では、衣替えが行われ、袷(裏地が付いた着物)から綿入れになり、足袋を履き始める日でもありました。

神無月

立冬 十月節(二十四節気) 十一月 八日頃(新暦)
小雪 十月中(二十四節気) 十一月二三日頃(新暦)

【玄猪御祝〜猪子祝】

武家では、十月最初の亥の日(玄猪)亥の刻、多産の象徴である猪の子を象った亥子餅を食べ、そして子孫繁栄を願う慣わしがありました。町家においても「玄猪」の日は収穫を祝う大切な日とされ、牡丹餅を食べ、囲炉裏・炬燵・火鉢といった暖房器具を使い始める日とされていました。

火鉢炬燵、囲炉裏の使い始め

霜月

大雪 十一月節(二十四節気) 十二月 七日頃(新暦)
冬至 十一月中(二十四節気) 十二月二二日頃(新暦)

【七五三の御祝】

【歌舞伎江戸三座の顔見世興行】

師走

小寒 十二月節(二十四節気) 一月 六日頃(新暦)
大寒 十二月中(二十四節気) 一月二十日頃(新暦)

【煤払】

【年市】

【節分】

【餅搗き】

【大晦日】